宗建寺みどころマップ
1,本堂(ご本尊 毘沙門天)
2,かえる
3,水琴窟(すいきんくつ)
4,妙音堂(弁財天:べんざいてん)
5,庚申塔(こうしんとう)
6,裏宿七兵衛さんのお墓
7,根岸典則さんのお墓
1、本堂 ご本尊 毘沙門天
お寺のご本尊様とは
お寺を守護し人々を教化する仏像の中で、本堂の真正面におまつりしてある仏像を、ご本尊様といいます。
宗建寺のご本尊様は、「毘沙門天王(びしゃもんてんのう)」です。
毘沙門天王は一般的には「毘沙門天(びしゃもんてん)」と言われ、「四天王」の仏様です。
毘沙門天
毘沙門天はその昔インドの神様で「ヴァイシュヴァナ」といい財宝・福徳をつかさどり、夜叉を従えて北方を守る神様でした。
今では四天王の中でも最強神として、財宝・福徳にくわえ護国そして戦勝の神様としての信仰をあつめています。
その姿は、甲冑を身にまとい、手には戟(げき:槍の一種)、一方の手には宝塔(ほうとう:大事な教えの入った塔)を持っているのが一般的です。
七福神の神として
毘沙門天は別名「多聞天(たもんてん)」いわれ一言も聞き漏らさない大智者の一面があります。
さらに、その御利益は
・浄信— 清らかな信仰
・戒—– 行ないを謹むための戒め
・聞—– 教えを聴聞すること
・捨—– 悪い見かたを捨てること
・受—– 善行の果報を受けること
・慧—– 智慧
・形貌— 姿形
・力—– 十の智慧の力、勢力・威力
・辯—– 成し遂げること
・色声香味触富貴自在—- 自由自在
の十種類の福と功徳があると言われています。(毘沙門天王経より)
そのためでしょうか、人々に福を授ける七福神のお一人として、今でも多くの人の信仰を集める仏様です。
弘法大師作の「仏像」
宗建寺には、本尊様の他に、弘法大師(空海)作と伝わる、秘仏の毘沙門天像が有ります。
毎年一月一日〜三十一日まで本尊様のお前立ちとして一般に拝観しております。
こちらも大変貴重な仏様です。
財宝・福徳そして勝負に対して良い結果をもたらすために、毘沙門様信仰をおすすめします。
四天王とは
仏教の世界では「須弥山(しゅみせん)」という大きな大きな山があるといわれています。
その大きな山には多くの神仏が住んでいて、頂上には帝釈天(たいしゃくてん)がおり、さらに、その上空には高くには、お釈迦様もいらっしゃる貴く仏教の世界観を表した山とされています。
その中腹には仏法を守る四天王が東西南北それぞれに守護をしています。
四天王の守護は次の通りです。
東方 持国天
南方 増長天
西方 広目天
北方 毘沙門天
2かえる
3,水琴窟(すいきんくつ)
水琴窟
水琴窟は日本庭園の装飾の一つです。
宗建寺の水琴窟は、周りの玉砂利のに水をまき、竹筒に耳をあて、涼しげな音を聞くようになっています。
地中にうめた瓶の反響音を楽しみます。
水琴窟は、地中に埋めた瓶に水滴を垂らし、その音の共鳴を楽しむ、日本庭園文化における最高技法の一つです。
江戸時代から最高の音遊びとされていましたが、いまではなかなかお目に掛かることが出来ないものです。
宗建寺では、この優雅で涼しげな音をみなさんに聞いていただきたいと思い境内につくっています。
涼しげな音は、侘びさびの世界。
水琴窟の音は侘びさびの世界を表現し、聞く人は、皆、心が落ち着くとおっしゃっています。
忙しい日常の傍ら、水琴窟の音を聞いてリラックスされてはいかがですか。
4,妙音堂(弁財天:べんざいてん)
妙音堂(みょうおんどう)
宗建寺の池の奥には妙音堂があります。
妙音堂には「弁財天(弁天様)」が祀られています。
「三味線のばち」が納められています
宗建寺の妙音堂にはたくさんの「三味線のばち」が納められています。
それはナゼでしょう?
妙音堂に祀られている仏様は「弁財天様」です。弁財天様は音楽や芸術の神様として祀られています。
多くの音楽や芸術を志す人々の心の支えとなっている仏様で信仰の対象となっています。
昔の青梅のまちは江戸時代より、文化芸術に栄え、花街も多くありました。
そして、その花街で芸を磨く芸子さんや舞妓さんが、その技の向上を願い宗建寺の妙音堂に三味線のばちや弦を納めたといわれています。
ギターピック、ギター弦。
いつの時代でも文化芸術に勤しむ方々は信仰深いようです。
最近は、妙音堂には、ギターのピックや弦などが納められることが多くなりました。
芸術音楽に携われる方は一度、芸術のまち青梅に足をお運び下さい。宗建寺の弁天様をお参りされましたら、技術向上間違いなしですね。
5,庚申塔(こうしんとう)
庚申塔(こうしんとう)とは
宗建寺の池の奥にある妙音堂の石段下に、庚申塔があります。
これは全国的にみても珍しい形の石塔だといわれております。
特に精巧な細工に注目して下さい。石台の三申(さる)が烏帽子や、ちゃんちゃんこをまとい、舞いながら扇で目口耳を押さえている点など、とても珍しい庚申塔です。
では、「庚申塔」とは一体何か、いつ頃建立されたかをご説明したいと思います。
人間の身体の中には「三匹の虫がいる?」
庚申塔は庚申信仰の供養の為に作られました。
庚申信仰とは、道教の守庚申(しゅこうしん)に由来し、平安時代に中国から日本へ伝わり、室町時代に流行し、江戸時代には民間で広く行われるようになりました。
道教では、人間に身体の中に「三尸(さんし)」という三匹の虫が住んでいて、「上尸(じょうし)」は頭の中、「中尸(ちゅうし)」はお腹、「下尸
(げし)」は足にいるとされていました
この虫は、庚申(昔の暦のこと)の日の夜に眠っている身体から抜け出し、天帝(道教の最高神)にその人間の行った悪事など悪いことを報告に行き、天帝はその報告によって人の寿命を決めていました。
「三尸」が抜け出すのは庚申の日の夜、眠っているときと決まっていましたので、人々は庚申の日には夜通し起きていて「三尸」が天帝に悪事を報告するのを阻止しようと考えました。
そこで人々は、庚申の日には呪文を唱えたり、茶を飲んだり、遊んだりして徹夜をしました。これを「庚申待ち」といいます。「待ち」は「祭(まち)」とも書きます。
これがコミュニティーとなり、講となり、それを供養するために塔を建てたり塚を建てるようになりました。
見猿 言わ猿 聞か猿
庚申信仰は仏教や神道にも習合されていきました。
仏教では本尊を青面金剛(しょうめんこんごう:顔の色が青い金剛童子)とするものが多く見られ、その怒りの形相や身に蛇をまとう姿によって、病魔、病鬼を払い除くことに威力絶大とされています。すなわち段々と魔除けの信仰になってきたわけです。
さらに、庚申の申(さる)と猿をかけ、そして「見ざる・言わざる・聞かざる」で知られる三猿が庚申信仰に取り入れられました。
神道系では、三猿の猿または「申」に関連づけて猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀るものもあります。三猿のレリーフはなく猿田彦または猿田彦大神の文字だけが彫られた角柱状の石碑が一般的です。
全国的に珍しい宗建寺の庚申塔
一般的に庚申塔は石柱や角柱状の石碑が一般的ですが、宗建寺の石碑は円形石碑の中に「青面金剛」彫られ、その下には精巧な細工で三申(さる)が烏帽子や、ちゃんちゃんこをまとい、舞いながら扇で目口耳を押さえている点(見ざる、言わざる、聞かさる)が彫られている全国的にてみても大変に珍しい庚申塔です。
宗建寺の庚申塔はいつ頃建立されたか
1812年に建立されたという記録と「客僧の『常休』という僧が次々と石像を作らせ供養していたらしい」という記録があります。
健康で長生きのために
宗建寺の庚申塔へのお参りをされるときは、ぜひ、素晴らしい「青面金剛」と「三猿」をごらんください。
きっと健康で長寿を全うできますよ。
6,裏宿七兵衛さんのお墓
青梅の鼠小僧「裏宿七兵衛」
青梅は「帯びの長宿」と唄われるように、東西に長い宿場町でした。
江戸時代中期、青梅の西方に裏宿という地に七兵衛さんは住んでいました。
七兵衛さんは青梅のねずみ小僧と言われていますが、その正確な伝記はほとんど不明です。
言い伝えでは、「一晩に十里(四十㎞)疾走し、遠くの都で盗みを働き、金品は貧しい人々に配り、翌朝何食わぬ顔で近所の人と挨拶をしていた」とか「笠をを胸にあてて走って笠を落とさなかった」とか「一反の布を腰に付け走り、布の端が地面につかなかった」、七兵衛は生まれつきの速いその足で、一晩で遠く甲州まで走り、そこの高利貸しの土蔵より金品を盗み飢饉に苦しむ地元の人々に分け与えた、ということです。などの健脚話がある義賊です。
また、羽村市出身の中里介山の小説「大菩薩峠」の始めに、人情も有り義侠心もある盗賊として登場しています。
しかし捕まってしまいました
このような義賊「裏宿七兵衛」もついに捕まってしまうときが来ます。
元文四年(1729)10月に村山三ツ木で裏宿七兵衛なるものが一味五人と共に捕らえられ、地元のひとの嘆願にもかかわらず、多摩川の大柳河原で処刑されました。その首を宗建寺裏手にあった青梅街道の「笹の門」という所でさらされたということです。
ところが、一夜大雨があり宗建寺脇の別当沢という小川に流れ着き、当時の和尚がこれを手厚く葬ったということです。
それ以来今日まで、足の速かった七兵衛さんを拝むと、足腰が丈夫になると伝えられ、お参りされるようになりました。
北の湖親方、瀬古選手選手
今では、健脚で知られた義賊七兵衛さんを供養する力士やアスリートも後を絶ちません。
故障に苦しんだ「横綱北の湖」や「マラソンの瀬古選手」なども七兵衛さんのお墓参りをして、勝利を祈願しました。
子供達の交通安全を見守る七兵衛さん
今では七兵衛さんはその足の速さから「交通安全」の守り神としても地元で親しまれています。
七兵衛さんの供養の日には地域の方々が供養祭を行い、参列者には小中学校校長や青梅警察署長が参列しいるほどです。(「義賊といえども、泥棒の供養に参列するのはちょっと不思議な気分」と署長は言っていました)
足腰を強くしたいアスリートのみなさん、健脚をいるまでも保ちたいみなさん、一度七兵衛さんのお墓参りをしてはいかがですか。
7,根岸典則さんのお墓
江戸時代の青梅の文芸
青梅は青梅縞や青梅綿をはじめ、石灰や木材、炭など生産と流通によって経済的に豊かで活気にあふれるとともに、大きな文化の花が開いたときでした。 金剛寺碑の碑文や高水山の不動堂の扁額等を書いた書家の小峰峯眞(こみねほうしん)、その孫で住吉神社拝殿の天井画や当時の文化人の画像等を措いた画家の小林天淵(こばやしてんえん)、また雪洞玄岩や浄月律師たちが活動していました。
青梅の文芸の中心人物
青梅の江戸期文芸の生成期の中心人物として、「根岸典則(ねぎしつねのり)」がいます。
宝暦八(1758)年に青梅縞の問屋をしていた本町の根岸喜右衛門の長子として生まれ、天保二(1831)年に没しました。
父は洗雪、母は綾衣という俳号があり、凉宇と号す叔父がいて、文化人たちに囲まれた中で育ち、8歳の年には父の追悼句集「冬こだち」が出版されると、「宣水(きすい)」という号で追悼句を作るほどの力量がありました。
風雅な人
根岸典則は、風雅な道に邁進し。京都から常保寺に寄寓していた中原章から和歌や歴史など古典の基礎を、漢学を儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学統である井上金峨に学びました。
また、京都へ赴いて日野資枝(ひのすけき)卿にも和歌の教えを仰ぎ、さらに禅を峨山和尚より修めるなど広く深く研鑽し、青梅の文化の発展に大きな足跡を残しました。
著書も多く青梅の風景や生活を漢詩で詠んだ「解谷詩集(かいこく)」、神代から中世までの日本史のエピソードを漢文で綴った「扶桑蒙求(ふそうもうきゅう)」は明治初期の教科書にも載りました。
墓所
宗建寺にある根岸典則の墓所は、昭和2年に都の旧跡に指定されました。