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根岸典則さんのお墓

根岸典則さんのお墓

江戸時代の青梅の文芸

青梅は青梅縞や青梅綿をはじめ、石灰や木材、炭など生産と流通によって経済的に豊かで活気にあふれるとともに、大きな文化の花が開いたときでした。 金剛寺碑の碑文や高水山の不動堂の扁額等を書いた書家の小峰峯眞(こみねほうしん)、その孫で住吉神社拝殿の天井画や当時の文化人の画像等を措いた画家の小林天淵(こばやしてんえん)、また雪洞玄岩や浄月律師たちが活動していました。

青梅の文芸の中心人物

青梅の江戸期文芸の生成期の中心人物として、「根岸典則(ねぎしつねのり)」がいます。
宝暦八(1758)年に青梅縞の問屋をしていた本町の根岸喜右衛門の長子として生まれ、天保二(1831)年に没しました。
父は洗雪、母は綾衣という俳号があり、凉宇と号す叔父がいて、文化人たちに囲まれた中で育ち、8歳の年には父の追悼句集「冬こだち」が出版されると、「宣水(きすい)」という号で追悼句を作るほどの力量がありました。

風雅な人

根岸典則は、風雅な道に邁進し。京都から常保寺に寄寓していた中原章から和歌や歴史など古典の基礎を、漢学を儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学統である井上金峨に学びました。
また、京都へ赴いて日野資枝(ひのすけき)卿にも和歌の教えを仰ぎ、さらに禅を峨山和尚より修めるなど広く深く研鑽し、青梅の文化の発展に大きな足跡を残しました。
著書も多く青梅の風景や生活を漢詩で詠んだ「?谷詩集(かいこく)」、神代から中世までの日本史のエピソードを漢文で綴った「扶桑蒙求(ふそうもうきゅう)」は明治初期の教科書にも載りました。

墓所

宗建寺にある根岸典則の墓所は、昭和2年に都の旧跡に指定されました。